時をかける少女の新旧

ふと思い立って、筒井康隆の手による原作「時をかける少女」を読んでみる。昨年のアニメ版「時をかける少女」と比べてみると、40年前と現在の差が凄く出ています。

例えば描かれる女性像。原作主人公の芳山和子は、言葉遣いがすごく丁寧で、大人しくて控えめな女性として描かれます。例えば物語冒頭の和子のセリフは

「もういいわ。ゴミはわたしが捨ててくるから、あなたたち、手を洗っていらっしゃい」

・・・です。なんか丁寧すぎて、変です。大林監督による実写映画「時をかける少女」で芳山和子役をやった原田知世も、同じくお淑やかな女性だったような気がします(記憶があやふやですが)。


それと比べるとアニメ版主人公、紺野真琴はすごく感情表現が豊かです。私のお気に入りが、真琴が焼き肉を食べるシーン。もう満面の笑みを浮かべ、だらしなく大口を開けて、妹に(おいおい…)という目で見られながらも、まったく気にしない、この真琴の表情です。お淑やかからはほど遠い、幸せそうな、この表情。


美味そう。


タイムリープ能力を獲得したときの感情も違う。原作の和子は、自分だけがタイム・リープ能力を持っていることで、他の人から「普通の人と違う」と見られることに恐怖感を覚えます。

「(前略)ところで君は、自分がそんな能力を持っていることがいやなのか?」
「そうなんです!」
和子は叫ぶように身をのりだしていった。
「わたしは、自分だけこんなおかしな能力をもっているなんて、いやなんです」
「うん、むりはないな。ほかの人たちから、君だけがふつうの人間でないように思われるのがいやなんだろう?」
福島先生はそういって和子にうなずいてみせた。和子もうなずき返した。

うーん、伝統的な日本人の考え方。出る杭になることが怖いんですね。



一方、アニメ版の真琴はタイムリープの能力をばんばん使って楽しい毎日を送ります。真琴が能力を使って一番最初にやったことが、「妹に大好物のプリンを食われてしまったので、食われる前の過去にタイムリープする」ですからね↓


プリン美味そう。



その後も何度もタイムリープを繰り返してカラオケをしたり、下らないことにばかり能力を使います。「もうこの能力のおかげで毎日が楽しいよ〜〜〜がっはっは!」と笑う真琴の姿からは、深刻さの欠片もありません。なんてお気楽なんだ。




新旧の物語でいちばん差が激しいのが、タイムリープを論理的に考えるかどうか、です。

原作の和子がタイムリープの能力を得たときは理科の福島先生に相談して、時間や空間を跳躍することについて考えます。

「すると先生なら、この芳山君の場合のようなふしぎなできごとを、どう説明されるんですか?」
「テレポーテーション(身体移動)とタイム・リープ(時間跳躍)だな」
タイム・リープ?」
「うん、芳山君のように、はっきりした現象じゃないけど、それに似たできごとはあちこちで起こっているんだ。たとえば・・・(この後たっぷり1ページは福島先生による講義が続く)

また、深町一夫の未来での身分は薬学を専攻する大学生・研究者で、現代にやってきた理由は時間跳躍の研究中の事故です。どれも真面目かつ理科チック。



ですがアニメ版には福島先生のような存在はいないし、真面目に議論したり考えたりすることもありません。代わりとしてあるのは、魔女おばさんとの会話だけ。

「それ、タイム・リープよ」
タイムリープ?」
「(中略)時間ってのは不可逆なのね」
「ふかぎゃくぅ?」
「時は戻らない。ということは戻ったのは真琴、あなた自身。真琴が時間を飛び越えて過去に戻ったのよ」
「ほんとうに?」
「そう珍しいことじゃない。真琴くらいの歳の女の子には良くあることなんだから」

「んなアホな。」と笑うところです、ここ。

でもこの無茶苦茶な説明を、知的で落ち着いた声で静かに語られることで、何となく説得力があるかのように錯覚してしまうのです。魔女おばさん役の原沙知絵、いい仕事してます。

まあそれはともかく、真琴もタイムリープを物理とか科学とかそういう観点から悩むことは一切ありません。




アニメ版の一番象徴的なのが、タイムリープ回数が1回残っていることに気付くシーンです。多くの人が指摘するように、あれは論理的におかしい。物語が成立しないくらいの大きな論理矛盾が存在します。


だけど、残り1回のタイムリープを使って真琴が走り出すあのシーンは、何度見ても、掛け値無しに、爽快で、気持ちいい。BGMに流れる奥華子の曲も、たまらなくいい。



それは矛盾を吹き飛ばして「どうでもいいや、んなこと」と思わせてしまうくらい、爽快なシーンなのです。理屈抜きで。



原作小説の芳山和子は待つ女性でした。物語のラストは、こう締めくくられます。

ただ、ラベンダーのにおいが、やわらかく和子のからだをとりまく時、かの女はいつもこう思うのだ。
−−いつか、だれかすばらしい人物が、わたしの前にあらわれるような気がする。その人は、わたしを知っている。そしてわたしも、その人を知っているのだ…。
どんな人なのか、いつあらわれるのか、それは知らない。でも、きっと会えるのだ。そのすばらしい人に……いつか……どこかで……。

彼女は「白馬に乗った王子様」を待つ女性として描かれていました。



が、紺野真琴は未来を待たず、自ら走っていく女性として描かれています。

??「…未来で待っている」
真琴「…うん。すぐ行く。走っていく」

あまり深くは考えていないかもしれないけれど、でも懸命に、真剣に、前へ、走っていく。そんな女性として描かれていることが最大の違いなのでしょう。原作では女性が待つ存在なのに、アニメ版では男性が待つ存在なんですからね。



別にどちらがいいとか悪いとかではなく、40年の歳月って大きいものなんだなあと感じた次第であります。








あとついでに。私も歳を取ったのかもしれないなぁと思うのですが、真琴の「のび太泣き」が何度見ても微笑ましくて、気持ちいいんですよね。

私が高校生の頃ならたぶんここまで感動しなくて、むしろ見たくないシーンだと思うのですが…。

たぶん歳を取って感情を思いっきり表に出すことが少なくなったからこそ、真琴の全身を使った大泣きを見て「…気持ちよさそうだな、おい。」と感じるのかもしれません。

俳優さんもいい仕事してます。

うぇ〜〜〜〜〜〜〜ん。