教壇という場所

今日は授業の最終日。これで教壇に立つことが数ヶ月間ないと思うとホッとする。大学で先生業をやるようになって3期目、さらに2週間ほどの新入社員研修の講師を2回やっているんだからそれなりの場数は踏んでいるはずなのに、それでも授業直前は緊張してしまいます。

特に授業直前の15分間は、なるべく話しかけないでほしい。頭の中で授業のストーリーを反芻しているのです。「準備してても授業に失敗することもあるし、準備しなくても成功することあるよ」とアドバイスしてくれる先輩もいますが、その通りだと思うのですが、そういう問題でも無いのでしょう。強迫観念のようなものです。

教壇に立つ人間は全人格が試験されている、と昔から考えてしまいます。知識と技術と教育テクニックだけではなく、人格までも試されてしまう。受講者は鋭いですからね。私が卑しい人間ならば、すぐにそれを嗅ぎつけてしまいます。だから授業が始まった瞬間、私は大学院入試の面接試験の時のように気を引き締めてから話しを始めます。

適度な緊張感に包まれながら、自分の言葉に自信を持って「伝えたい」と思って話すときは、受講者とよく目が合います。逆に自信が無い状態で迷いながら話すと、みんなそっぽを向きます。


教壇を降りて、実習している生徒を観察するときも同じ。むしろ私が生徒に観察されているのです。私が生徒を放置しているのかケアしているのか、どんな表情と声で生徒に接しているのか、誰に接しているのか。それによって私の評価が決まり、それによって教室の雰囲気が決まります。だから贔屓なんてしたくないし、なるべく話しかける男女比を均等にするべく心を砕くのです(まぁそれがエロイと言われればエロイかもしれんけどね)。


周りの先生業してる人たちはもっと肩の力を抜いているような気がする。私も少し肩の力を抜かないとなぁ。何か新しいことをやりたくてもこれだと強迫観念に縛られちゃう。